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2011年10月29日

FK12コメットお披露目会

最後に富士川滑空場に行ったのは、大陸横断に出発する直前の去年の6月。それ以来、なんと1年半以上もご無沙汰しておりました。

本当はずっと皆のことが気になってたので、タイラップさんから「富士川で自作飛行機のエンジンテストやるよ!」とお誘いが来たときは超嬉しかった!ありがと~う!

この自作飛行機「FK12コメット」はマリンアートさんが自分の工房でコツコツと組み立ててきたものです。最後に制作風景を拝見したのは去年の4月で、このときは機体の塗装に入る準備を進めている段階でした。あの時の真っ白な機体のイメージしか無かったので、いざ富士川に到着してみてビックリ!ななななんて美しい機体なんだ!!これ本当に自作ですか!?

私はメカの事は詳しくないけど、それが芸術的な作品かどうかは感覚的にわかります。美的センスだけでは作品は作れないし、技術だけあっても美しくは仕上がらない。両方が備わったときにはじめて顕現するのがアートだとすると、このFK12コメットは、まさにアートの領域に達しています

マリンアートさんは飛行機の本質である「飛ぶ」という機能を第一に考えて制作していたと思いますが、それと同じくらいエクステリアの仕上がりにも妥協しませんでした。例えば、深みある輝きを表現するために、お手軽なメタリック塗料を使うのではなく、先にシルバーを吹いてその上にクリアーな深紅を重ねたとのこと。この話だけでも大変な手間と情熱を注いだ事が伺えます。

どんな人が見ても、魂の込められた仕事には惹かれるものです。それは打算的な思惑とは相容れない高次な営みです。マリンアートさんの想いが結晶したFK12コメットはその最たるものだと思いました。BRAVO!!!

今回の目的はエンジンテストとタキシング。自作飛行機は、組み立てが終わったからといって直ぐにテイクオフできるわけではありません。

「地上でテストを重ねて、壊れるところはどんどん壊す。ひとつひとつ改良していったうえで、実際に飛ぶのは半年~1年後くらいかな?」とのこと。安全性にも妥協はなさそうです。

キットだけならお金で買えるかも知れませんが、実際に完成まで持って行ける人は僅かです。プラモのように全パーツが揃っている訳ではありませんから、自分で自作しなければならない部品も膨大らしい。まさに制作者の情熱が問われる「創造」の世界だといえます。

思えばこれまでも、息を呑むような美しさの自作機を間近で見る機会に恵まれてきました。東京フライングクラブの藤田さんが自宅の6畳間で制作したウルトラクルーザーはメタルの光沢をそのまま活かした秀逸な機体ですし、八谷さんのOpenSkyプロジェクトで制作されたM-02はメーヴェを意識したフォルムで、存在そのものが芸術的でした。そしてこのFK12コメットもまた。。。


この機体はご覧の通り尾輪式の複葉機ですから、操縦にはそれなりの練習が必要に違いありませんが、毎週欠かさずモーターグライダーで研鑽を積んできたマリンアートさんなら、きっと不屈の意思で空に舞うことでしょう。

ここのところ仕事と断捨離で内向きモードが続いてましたが、この情熱のカタマリを見てから自分も何か創りたい!って思いました。。。。こんなすごいのじゃなくていいから。。。笑

この機体についてもっと詳しく知りたい方は、タイラップさんの記事をどうぞ!

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2011年10月17日

祝!コンテナ倉庫解約

約2か月分の週末を投じてついに!コンテナ倉庫が空になりました。身分不相応な契約でしたが速攻で解約です!ばんざーい。これで自由の身だー(T_T)

かといって実家のスペースに余裕があるわけではありませんから、大型の家具や古服や書籍類を処分するなど、かなり大整理しました。今までデッドスペースに使わないモノがありすぎで無駄な収納だらけだったので。

例えばクローゼットの奥にものを仕舞うと、一見スッキリしたように見えるんですが、中が見えないせいでそのまま死蔵モードに入ってしまいます。 いったん死蔵されたものは何年か経つうちに記憶から消え、屍の上に屍を築くことになります。10年も経つと。。。えらいこっちゃです。

コンテナ倉庫から運び出したモノの中には、バイク用品、飛行機用品、カメラ用品などなど、今となってはほとんど使わないのに愛着があって手放したくないモノがいっぱいありました。しかし、収納スペースには限度があるわけで、必要な時にすぐに取り出せないような仕舞い方をするくらいなら、最初から無いのと同じなんだよなぁ。悩み。

そこで愛着のある品は、多少手間をかけてもネットオークションに1円スタートで出品したりしました。私としては、大事に使って貰えるならタダで差し上げても良いところを、想像以上の高値をつけてくださる方がたくさんいてびっくりしたり。落札して下さった皆さん、ありがとーう。

さらに、前回リサイクル屋さんで家電を処分した時に「5年以内ルール」があるのを知って、使いもしない電化製品を勿体無いからと保管しておくと誰も得をしないという事を身をもって知りました。やっぱり使わない家電はリサイクルできるならしたほうがイイ。こちらは多額の処分費用が浮くし、貴重な収納スペースが空くし、中古品を探してる人の役に立つし、リサイクル屋さんも儲かるし。これってイイコトづくめなんじゃない?と思うと断捨離もなかなか楽しいです。

それにしてもコンテナ倉庫はいい教訓になりました。収納スペースがれっきとしたコストであるという事を思い知った次第です。またそれ以上に、所有物が多いほど不自由な気分になる事も分かりました。気が付いたら今年1月に帰国してからほとんど外出してない。片付けが終わるまでは遊びにいく余裕なんてない、と内心どこかで萎縮していたように思います。

今年3月、地震、津波、火災などで一瞬にして多くの人々の財産が消えました。それ以来、心のどこかで所詮モノは無常なのだと思うようになったのかも知れません。もちろん、PC欲しいな~とか、クルマ欲しいな~とか思ったりはします。でも、モノは使うためにあるのであって、所有に重きがおかれると何かが狂うのですね。

とにかく今年一番の懸案だったコンテナ倉庫が解約できて良かった!
やっと再スタートの準備が出来たような、清々しい気分です。(^o^)/

さーて、自分へのご褒美に何を買(べこばき)

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2011年10月3日

プリント写真の片付け

ちょうど学生の頃~2002年の初アフリカ旅行ぐらいの間まではずっとフィルム時代。なので実家のタンス内には、青山若かりし頃の膨大なプリント写真が眠っています。

すっかりデジカメユーザとなってしまった今、2002年以前の写真を見返す事はほとんどなく、たまに用事があって古い写真を探す時などは半日がかりの大仕事。いつか整理せねば。。。と思う事はや10年!?

コンテナ倉庫の解約期限が迫るなか、どうしてもタンスのスペースを空ける必要が出てきたので、エイヤで写真の整理を行う事にしました!もうネガの焼き増しなんてしないので、思い切ってフィルムの束を処分してプリントだけ残す!「こんなの1日で終わるさー」と思っていたらまる2日がかりだったけど。。。orz

で、判ったのが、およそ1996~2002というフィルムカメラ時代に撮った写真のほとんど(90%以上)がバイクツーリング関係のものだったということ。。。袋に小分けするとき、「年+月+内容」を大雑把に書いていったのですが、「林道祭りin○○」「木賊温泉キャンプ」「海外ツーリングの宴」…というようなタイトルばかりでありました。

しかも、キャンプものは写ってるメンバーが毎回ほとんど同じ仲間なので、「これは何年の何処か!?」という基本的な情報を推測するために、SL230のフェンダーの傷つき具合や、背負っていたランドセルなどのコスプレ装備を元に、
「まだ初々しい様子だから1996年頃に違いない」
とか
「かなり末期症状だから1999年後半であろう」
などと、つたない記憶をフル回転させていったわけです。(どうなのそれは)

まる2日もそんな事をしていたら、長い間忘れていた膨大な過去の記憶が蘇ってきました。旅先で出会った仲間、一緒に焚き火を囲んだ友達、へっぴり腰だった林道走行、雨に打たれても風に吹かれても有頂天だったソロツーリング。。。

もちろん、想い出したのはイイコトばっかりではありません。結果的にケンカ別れになっちゃった人もいるしね。そういうイマイチな過去も含めて淡々と向き合う作業だったかも。

たかが写真の整理と思っていたけれど、まるで人生の棚卸みたいな感じでした。
人が死ぬ時に走馬灯を見るって言うじゃないですか。あれを一部手動でやったような感じww。
なんかスッキリして、久々にグッスリ眠れました。

しかーし!今月中にコンテナ倉庫の残りの荷物を空にせねばなりません。
週末が足りないじゃないか。どうしてくれる。

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2011年9月25日

家電処分ぎりぎりセーフ

先月あたりからずっと断捨離モードが続いています。ダンボールの中身とかは自分で選別できるから良いのですが、最後まで悩んだのが、去年ロシア出発前にコンテナ倉庫に保管していった冷蔵庫・洗濯機をはじめとする家電製品。

当時の考えは、
「再びアパート暮らしになったら家電は絶対必要。買い替え費用より月々1.5万の倉庫代の方が安い!」
という思いから家電の処分よりも保管を選んだわけですが、結局あれから1年以上も経ってしまい、今では確実に累積の倉庫代のほうが高くついています。
これぞまさに不良債権。アホかーーー自分!(゚皿゚)

こんなになるまで倉庫を放置していたのは、3.11の震災の影響もあります。節電を経験し、ほんとうに以前と同じやり方で一人暮らしを再開するべきだろうか?という根本的な所でためらいがありました。アパートを借りるなら倉庫の家電一式は全部必要になってきますが、そもそもたった一人が暮らすのに、専用のエアコン、専用の冷蔵庫、専用の洗濯機とか、本当に必要なんだろうか。

6月にりかさん達と2週間の共同生活を送ったり、7月に節電のため緑のカーテンやってみたり、8月にスウェーデン友達と関西でゲストハウス生活したり、恩師の太郎さんの早すぎる死にショックを受けたりしているうちに、何だか価値観が変わってきた。やっぱり、今の自分に、これほどたくさんのモノが必要とは思われません。

ワゴンRで大陸横断した時に思い描いた理想としては、できれば持ち物すべてを自分の腕で持てる重さのものにスケールダウンすること。たとえば将来どうしても冷蔵庫が必要になったら、ワゴンRで運べるくらいの小型で省電力なものにする。大きなデスクはやめて、ちゃぶ台にする。本棚だって、地震で倒れるような背の高いものはやめて、小さなカラーボックスにお気に入り書籍だけ厳選する。。。とか、とにかく身軽に移動できて、省エネにもなり、なおかつ災害に強い、という状態に移行したほうが、時代にも合っているのではないかと。って、欲張りすぎか?

■ リサイクル屋さんに家電処分を依頼
そんな折、なんともタイミングよく実家の近所にリサイクルショップがオープン!
不要になった電気ヒーターや扇風機などを持って行ったところ、ほとんど値段はつきませんでしたが快く引き取ってくれたので「粗大ゴミにしなくて良かった!」と思いました。まだ使えるのだから誰かに役立てて貰えたほうがいいし、リサイクル屋さんだって儲かるなら良い事です。

そこで、倉庫にまだ家電一式があるのを処分したい件を相談したところ、わざわざトラックで倉庫まで来てくれました。(自分でトラックを借りなきゃ駄目かと思ってたので、これは有り難かった!)
査定士さんが真っ先に見るのは、家電に貼ってあるステッカーです。ここに書いてある製造年とかが重要らしい。そして何と、今回はほとんど全て買い取って貰えることになりました!

3年もののガスコンロ +500円
4年ものの電子レンジ +500円
4年ものの冷蔵庫(2ドア式) +2000円
ガラス製のデスク、飾り棚、本棚etc. +2500円
雨ざらし洗濯機 -2000円 ※処分代
合計: +3500円

って、買ったとき2万円だった電子レンジが500円って何じゃそりゃー!とか、新品で4万円近くした冷蔵庫が2000円ってあんまりじゃねーか!とか思わないでもないけど、今のご時世、処分料がかからないだけでも御の字なのです。

しかも全ての家電が4年もの、という今のタイミングで処分を依頼してラッキーだった事も分かりました。何でも、原則として買取できる家電は「5年以内」のもので、「8年目くらいまでで奇麗な状態」だったら0円で引き取り、それより古いものは、例えば冷蔵庫だったら4000円~の処分料がかかるとのこと。

ナニー!リサイクル屋ぼったくり!。。。ではありません。昔は、自治体に粗大ゴミの依頼をしたら家電だって引き取ってくれたかも知れませんが、今ではそういう訳にはいかないのです。例えば杉並区の粗大ゴミ取り扱い品目に、冷蔵庫や洗濯機などの大物家電は含まれていません。理由は、家電リサイクル法の定めでこれらの家電は収集できないからです。

参考までに、自力で冷蔵庫ひとつ処分するのにどれくらいかかるかというと、こちらに家電処分費用の内訳がありますが、リサイクル券に5000円位、収集運搬料が3500円~というわけで、冷蔵庫ひとつ処分するのに1万円近くかかってしまうわけです。(((゚゚Д゚゚)))

※一般家庭でこの出費を回避する方法のひとつは、古い家電を下取りしてくれる販売店で新品に買い換えることです。ですが、私の場合は買い替えではないのでこの手は使えず。

もっとも、これから一人暮らしをスタートする学生さんに全部譲るとか、手間と時間をかけてネットオークションで売るとか、頭を使えばいろいろやり方はあります。でも、搬出用トラックのレンタルや写真撮りの手間など準備が必要ですし、その時間をアナタの時給に換算したらえらいことに。。。
仮に10年選手の家電を処分するとしたら、たとえ4000円かかってもリサイクル屋さんにお願いする方が安上がりで時間の節約になるのかも知れない。

というわけで家電の廃棄コストがこんなにも高いと知って少なからず驚きました。モノは買った瞬間に価値が半減すると言われてますが、家電の場合は半減どころでなく含み損まで抱える可能性があるわけですから、今後の購入は慎重にならざるを得ません。(一人暮らしの是非も含め)

4年まえ、じっくり吟味して購入したお気に入り家電(シルバー色で統一)とか、お洒落なガラス天板のデスクや珍しい飾り棚など、結構こだわりの品が多かっただけに、お別れはなかなか寂しいものがありました。が、このコンテナ倉庫を契約している間は、永遠に月々1.5万円ずつかかってくるばかりでなく、中の品々も湿気や熱で変色したり性能が劣化したりと全くイイコトがありません。だから、リサイクルに出せて本当によかった。

今回たまたま収支がプラスになり、断捨離のタイミングとしてはぎりぎりセーフ!だったかな。
なんか、少しすっきりしたかも。

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2011年9月21日

ポーリュシカ・ポーレ

毎日ギュウギュウ詰めの満員電車で通勤していると、ときどきミーハ達と一緒にシベリアを渡ったときの事を思い出します。そんなある日、ふとポーリュシカ・ポーレが聴きたくなって、こんなエピソードを思い出しました。

去年の夏、ワゴンRの中で退屈をもてあましたミーハいわく、
「ナオコのiPodに入ってる音楽はぜんぜん駄目だ。僕の趣味じゃない!」
「悪かったわね。でも音楽聴きたいって言ったのそっちだからね」
「ロシア語の曲とか全然ないの?」
「あるわけないでしょ。私ロシア語分かんないし。あ、でも。。。ポーリュシカ・ポーレって曲がひとつだけ入ってる。もしかしてロシア語じゃない?」
「ポーリュシュカ・ポーリェ!それロシア語だよ!有名な曲だよ」
「私の好きな曲なんだよね。だけど、どういう意味なの?」
「ポーリュシュカ(Пoлюшкo)とかポーリェ(пoлe)っていうのはロシア語で草原っていう意味だ。」
「草原の歌なの!じゃあシベリアにぴったりだね!」

。。。その日の晩、いつもどおり地平線まで続く草原の中でのキャンプでした。草むらの中で器用に焚き火を起こし、慣れた手つきで飯ごうをくべているミーハ。その様子をぼーっと眺めているほかない役立たずな私は、突然イイコトを思いついてワゴンRにダッシュで戻り、iPod Touchと携帯スピーカを草原にセット。

「ミーハ、ここでポーリュシカ・ポーリェを聴こうよ!せっかく草原にいるわけだし」
「おお、やるなナオコ。そりゃいい考えだ。かけてくれる?」



夕暮れの静寂に包まれたシベリアの平原。。。しばし流れるオリガの歌声。。。

何故だかわからないけど、本気で感動しました。何言ってるか分からないロシア語の歌詞なのに、そのひととき、完全に風景と溶け合っていて。その一瞬一瞬が、信じられないほど美しく感じられたのを覚えています。
やんちゃなミーハが、このときばかりは黙って聴いていたのも印象的でした。
たぶん、私と同じ気持ちだったのかも知れない。

「これはね、戦争の歌なんだよ。たくさんのロシア兵が死んでいったんだ。。。」
「そうだったんだ。。。」

。。。あれから一年ちょっと経って、ふとこの曲の歌詞が知りたくなりました。
ちょっと検索かけたら、いっぱい出てきた。ちょっと長いけど、載せます。

ロシア語読み方カナ表記
Пoлюшкo-пoлe
Пoлюшкo шиpoкo пoлe
Eдyт, дa пo пoлю, гepoи
Пpoшлoгo вpeмeни гepoи

Beтep paзвeeт
Эx, дa пo зeлeнy пoлю
Иx yдaлыe пecни
Пpoшлoгo вpeмeни пecни

Toлькo ocтaвит
Им бoeвyю cлaвy
И зaпылeннyю дopoгy
Bдaль yxoдящyю дopoгy

Пoлюшкo-пoлe
Пoлюшкo шиpoкo пoлe
Eдyт, дa пo пoлю, гepoи
Пpoшлoгo вpeмeни гepoи

Пoлюшкo-пoлe
Bидeлo нeмaлo гopя
Былo пpoпитaнo кpoвью
Пpoшлoгo вpeмeни кpoвью

Пoлюшкo-пoлe
Пoлюшкo шиpoкo пoлe
Eдyт, дa пo пoлю, гepoи
Пpoшлoгo вpeмeни гepoи

Beтep paзвeeт
Эx, дa пo зeлeнy пoлю
Иx yдaлыe пecни
Пpoшлoгo вpeмeни пecни

Toлькo ocтaвит
Им бoeвyю cлaвy
И зaпылeннyю дopoгy
Bдaль yxoдящyю дopoгy

Пoлюшкo-пoлe
Bидeлo нeмaлo гopя
Былo пpoпитaнo кpoвью
Пpoшлoгo вpeмeни кpoвью

Пoлюшкo-пoлe
Пoлюшкo шиpoкo пoлe
Polyushka-polye
Polyushka shiroka polye
Yedut da po palyu gyeroi
Proshlava vryemyeni gyeroi

Vyetyer razvyeyet
Eh, da pa zelyonu polyu
Ih udalyye pyesni
Proshlava vryemyeni pyesni

Tolka astavit
Im bayevuyu slavu
I zapilyennuyu darogu
Vdal uhadyashuyu darogu

Polyushka-polye
Polyushka shiroka polye
Yedut da po palyu gyeroi
Proshlava vryemyeni gyeroi

Polyushka-polye
Vidyela nyemala gorya
Byla propitana krovyu
Proshlava vryemyeni krovyu

Polyushka-polye
Polyushka shiroka polye
Yedut da po palyu gyeroi
Proshlava vryemyeni gyeroi

Vyetyer razvyeyet
Eh, da po zelyonu polyu
Ih udalyye pyesni
Proshlava vryemeni pyesni

Tolka astavit
Im bayevuyu slavu
I zapylyennuyu darogu
Vdal uhadyashuyu darogu

Polyushka-polye
Vidyela nyemala gorya
Byla propitana krovyu
Proshlava vryemyeni krovyu

Polyushka-polye
Polyushka shiroka polye
ポーリュシュカ ポーリェ
ポーリュシュカ シロカ ポーリェ
イェドゥッ ダ ポパリュ ゲロイ
プロシュラヴァ ヴリェミェニ ゲロイ

ヴィェティェ ラズヴィェイェット
エフ ダパ ゼリョヌ ポーリュ
イフ ウダリーイェ ピィェスニ
プロシュラヴァ ヴリェミェニ ピィェスニ

トルカ アスタヴィット
イム バイェヴユ スラヴ
イ ザピリェヌユ ダロ-グ
ヴダル ウハデャシュユ ダローグ

ポーリュシュカ ポーリェ
ポーリュシュカ シロカ ポーリェ
イェドゥッ ダ ポパリュ ゲロイ
プロシュラヴァ ヴリェミェニ ゲロイ

ポーリュシュカ ポーリェ
ヴィディェラ ニェマラ ゴーリャ
ブィラ プロピタナ クローヴュ
プロシュラヴァ ヴリェミェニ クローヴュ

ポーリュシュカ ポーリェ
ポーリュシュカ シロカ ポーリェ
イェドゥッ ダ ポパリュ ゲロイ
プロシュラヴァ ヴリェミェニ ゲロイ

ヴィェティェ ラズヴィェイェット
エフ ダパ ゼリョヌ ポーリュ
イフ ウダリーイェ ピィェスニ
プロシュラヴァ ヴリェミェニ ピィェスニ

トルカ アスタヴィット
イム バイェヴユ スラヴ
イ ザピリェヌユ ダロ-グ
ヴダル ウハデャシュユ ダローグ

ポーリュシュカ ポーリェ
ヴィディェラ ニェマラ ゴーリャ
ブィラ プロピタナ クローヴュ
プロシュラヴァ ヴリェミェニ クローヴュ

ポーリュシュカ ポーリェ
ポーリュシュカ シロカ ポーリェ

日本語訳だと、こんな感じ?(オリガ版の英語訳をさらに意訳→ 原型とどめてないと思われ)

草原よ草原、果てしない草原よ
勇者が駆け抜けていった草原
それは過去の英雄たち

勇ましい歌声も、緑の草原の向こうに風がかき消していった
それは過去の歌
彼らの栄光も、埃道の果て

草原よ草原、どれだけの不幸を見たのだろう
血に染められた草原
それは過去の傷跡

※歌詞は基本的に上記3パターンの繰り返しと思われます。
※日本で言うならさとうきび畑に近い印象。

不思議なもので、こうして歌詞を繰り返しみてみると、今まで何言ってるかサッパリわからなかったのが、だんだん分かるような気がしてきた。しかも満員電車の中で。

オジサン達の背広に挟まれながらも、心をしばしシベリアの草原に飛ばす技を発見しました。
ミーハ、ありがとう。

※台風15号の影響で帰宅難民となり漫画喫茶にお泊り決定した記念に

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2011年8月25日

太郎さん、早すぎです

実は青山は我究館の4期生で、館長の杉村太郎さんは私の人生を変えてくれた恩師です。その太郎さんが、8月20日に47歳という若さで早逝されました。

私が大学生だった15年前は、就職氷河期という言葉が定着しはじめた時期で、特に女子の就職活動は一層の厳しいものがありました。一社でも内定が取れるかどうかという諦めムードの中で、太郎さんは「自分を磨け!妥協するな!」と言い続けてきた人です。

イケメンの太郎さんの第一印象は、「うわーかっこいいお兄さんだなあ。優しそう。」
だけど初めて我究館の講義に出席したとき、太郎さんはいきなり遅刻してきた男子生徒に向かって「遅刻した奴ら全員、脱げーっ!」と一喝。その後ずっとパンツ一丁で講義を受ける羽目になった彼らを見て、内心「とんでもない所に来てしまった。。。」と思ったものです。

ですが太郎さんの素顔を知るにつれ、その志の高さと学生達に対する愛情の深さはハンパでないと感じました。我究館はただの就職支援塾なんかじゃなかった。高度経済成長の絶頂期に甘やかされて育ってきた我々を、根本的に鍛えなおしてくれたのです。カッコつけは一切なし、常に本音ベースで、徹夜で討論したり、青春の悩み相談に乗ってもらったり、一緒にご飯食べに行ったり… (度胸つけるため一緒にバンジージャンプに行った学生達までいたようです)

当時の私はKSR-Iという原付バイクに夢中で、頭の中はオートバイ一色でした。だけど、142cm/35kgという小学生並みの体型がネックで、50ccのゼロハンまでしか乗れなかった。本当は400ccの中免(今でいう普通二輪免許)が欲しかったけれど、それは物理的に不可能だと、挑戦する事すら諦めていました。

そんな壁にぶち当たっていた私を後押ししてくれたのが、太郎さんだったのです。実は太郎さんも、青山の体型が全くバイクに不向きである事は分かっていたと思います。だから、私に向かって中免に挑戦しろ、とは敢えて言わなかった。

だけど、太郎さんを通じて自分と向き合っているうちに、中免を諦めきれない自分がいることに気付いたのでした。
「そうだ、どうしても欲しいものを諦めるなら、せめて当たってボコボコに砕けてからにしよう。。。」

で、最初は125ccの小型二輪からスタートして、試験場で何度もコケて教習車のバンパーのライトをばりんばりん割ったりしながらも、なんとか中型免許まで取得したお笑いみたいないきさつは、 こちらのページに長年晒し中。

ピカピカの中型免許を手にして、まっさきに向かったのが我究館でした。
「太郎さん!中免とれました!」

「直子!!よくやった!!」

そう言って、がっしと手を握ってくれた太郎さん。今でも、忘れられない一瞬です。
この一枚の免許が、その後どれだけの奇跡を運んできてくれたか、計り知れません。

ちなみに私の就職活動はさんざんで、のっけからあちこち落とされまくっていたのですが、太郎さんの指導のお陰でなんとか無事にIT系の第一志望の内定をゲット。(後にも先にも内定はこれひとつだったが。。。) だけど、夢のまた夢だった中免が手に入った事のほうが、企業の内定よりも何倍も嬉しかった!



しかしながら本当に悔やまれるのは、卒業後ずっと太郎さんにご無沙汰してきたことです。その後、我究館の仲間たちは社会に出てどんどん成功をおさめていったのですが、私は就職後もバイクとツーリングに明け暮れ、アフリカを放浪し、挙句の果てに離婚。あまりにもカッコ悪くて、とても恩師である太郎さんに会わせる顔が無かったというのが正直なところ。

最後に太郎さんと会ったのは2006年、アメリカに飛行機の免許を取りに行く直前です。
アポも入れずに、ふらりと我究館を訪れました。パイロットの資格を取りに行くという事が、学生時代の中免取得の想い出と重なって、どうしても太郎さんに会ってお礼を言いたかった。卒業から10年後のことです。太郎さんはもう私の顔なんか忘れているに違いないと思っていました。

しかしなんと太郎さんは講義を中断して出てきて、私を一目みるなり
「おおっ、青山直子!!! 元気だったか!」と。。。

この間、数千人もの生徒を教えてきたはずなのに、10年経ってもフルネームで覚えていてくれたなんて驚異的な記憶力です。そして「俺も飛行機免許は挑戦したいと思ってる。頑張れ!」と激励してくれました。だけど、この時すでに太郎さんに癌という病魔が忍び寄っていたなんて、知る由もなかった。

8月25日、私の唯一の我究館つながりであるイトウ先輩から連絡をいただき、太郎さんのお通夜に参列する事ができました。

現地は、弔問に訪れた人々で沿道まで溢れかえっていました。。。太郎さんの影響の大きさを思わずにはいられません。参列のさなか、あちこちに太郎さんの言葉がパネルで展示してある事に気付いた私。出典は、太郎さんが2004年に出版したアツイコトバという書籍です。(iPhoneアプリでも入手可能)

それらのパネルに目を通しているうちに、この15年間、太郎さん自身がさらに遠く深くまで心の旅をしていたという事に、いまさらながら気付きました。うすうす感じてはいたけど、太郎さんの本当に伝えたかった事はたぶん、企業の内定なんてちっぽけな話じゃない。損得に関係なく、自分の魂に忠実に生きろと言っているように思えてなりません。それはすごく難しいことだけど。。。。

でも、超人の太郎さんだって完璧だったわけじゃないと思う。
「死ぬ気でやれよ、死なないから。」
そう言っておきながら、47歳で旅立つなんて、早すぎです。

※追記:太郎さんインタビュー(2008年6月)





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