私が大学生だった15年前は、就職氷河期という言葉が定着しはじめた時期で、特に女子の就職活動は一層の厳しいものがありました。一社でも内定が取れるかどうかという諦めムードの中で、太郎さんは「自分を磨け!妥協するな!」と言い続けてきた人です。
イケメンの太郎さんの第一印象は、「うわーかっこいいお兄さんだなあ。優しそう。」
だけど初めて我究館の講義に出席したとき、太郎さんはいきなり遅刻してきた男子生徒に向かって「遅刻した奴ら全員、脱げーっ!」と一喝。その後ずっとパンツ一丁で講義を受ける羽目になった彼らを見て、内心「とんでもない所に来てしまった。。。」と思ったものです。
ですが太郎さんの素顔を知るにつれ、その志の高さと学生達に対する愛情の深さはハンパでないと感じました。我究館はただの就職支援塾なんかじゃなかった。高度経済成長の絶頂期に甘やかされて育ってきた我々を、根本的に鍛えなおしてくれたのです。カッコつけは一切なし、常に本音ベースで、徹夜で討論したり、青春の悩み相談に乗ってもらったり、一緒にご飯食べに行ったり… (度胸つけるため一緒にバンジージャンプに行った学生達までいたようです)
当時の私はKSR-Iという原付バイクに夢中で、頭の中はオートバイ一色でした。だけど、142cm/35kgという小学生並みの体型がネックで、50ccのゼロハンまでしか乗れなかった。本当は400ccの中免(今でいう普通二輪免許)が欲しかったけれど、それは物理的に不可能だと、挑戦する事すら諦めていました。
そんな壁にぶち当たっていた私を後押ししてくれたのが、太郎さんだったのです。実は太郎さんも、青山の体型が全くバイクに不向きである事は分かっていたと思います。だから、私に向かって中免に挑戦しろ、とは敢えて言わなかった。
だけど、太郎さんを通じて自分と向き合っているうちに、中免を諦めきれない自分がいることに気付いたのでした。
「そうだ、どうしても欲しいものを諦めるなら、せめて当たってボコボコに砕けてからにしよう。。。」
で、最初は125ccの小型二輪からスタートして、試験場で何度もコケて教習車のバンパーのライトをばりんばりん割ったりしながらも、なんとか中型免許まで取得したお笑いみたいないきさつは、 こちらのページに長年晒し中。
ピカピカの中型免許を手にして、まっさきに向かったのが我究館でした。
「太郎さん!中免とれました!」
「直子!!よくやった!!」
そう言って、がっしと手を握ってくれた太郎さん。今でも、忘れられない一瞬です。
この一枚の免許が、その後どれだけの奇跡を運んできてくれたか、計り知れません。
ちなみに私の就職活動はさんざんで、のっけからあちこち落とされまくっていたのですが、太郎さんの指導のお陰でなんとか無事にIT系の第一志望の内定をゲット。(後にも先にも内定はこれひとつだったが。。。) だけど、夢のまた夢だった中免が手に入った事のほうが、企業の内定よりも何倍も嬉しかった!
しかしながら本当に悔やまれるのは、卒業後ずっと太郎さんにご無沙汰してきたことです。その後、我究館の仲間たちは社会に出てどんどん成功をおさめていったのですが、私は就職後もバイクとツーリングに明け暮れ、アフリカを放浪し、挙句の果てに離婚。あまりにもカッコ悪くて、とても恩師である太郎さんに会わせる顔が無かったというのが正直なところ。
最後に太郎さんと会ったのは2006年、アメリカに飛行機の免許を取りに行く直前です。
アポも入れずに、ふらりと我究館を訪れました。パイロットの資格を取りに行くという事が、学生時代の中免取得の想い出と重なって、どうしても太郎さんに会ってお礼を言いたかった。卒業から10年後のことです。太郎さんはもう私の顔なんか忘れているに違いないと思っていました。
しかしなんと太郎さんは講義を中断して出てきて、私を一目みるなり
「おおっ、青山直子!!! 元気だったか!」と。。。
この間、数千人もの生徒を教えてきたはずなのに、10年経ってもフルネームで覚えていてくれたなんて驚異的な記憶力です。そして「俺も飛行機免許は挑戦したいと思ってる。頑張れ!」と激励してくれました。だけど、この時すでに太郎さんに癌という病魔が忍び寄っていたなんて、知る由もなかった。
8月25日、私の唯一の我究館つながりであるイトウ先輩から連絡をいただき、太郎さんのお通夜に参列する事ができました。
現地は、弔問に訪れた人々で沿道まで溢れかえっていました。。。太郎さんの影響の大きさを思わずにはいられません。参列のさなか、あちこちに太郎さんの言葉がパネルで展示してある事に気付いた私。出典は、太郎さんが2004年に出版したアツイコトバという書籍です。(iPhoneアプリでも入手可能)
それらのパネルに目を通しているうちに、この15年間、太郎さん自身がさらに遠く深くまで心の旅をしていたという事に、いまさらながら気付きました。うすうす感じてはいたけど、太郎さんの本当に伝えたかった事はたぶん、企業の内定なんてちっぽけな話じゃない。損得に関係なく、自分の魂に忠実に生きろと言っているように思えてなりません。それはすごく難しいことだけど。。。。
でも、超人の太郎さんだって完璧だったわけじゃないと思う。
「死ぬ気でやれよ、死なないから。」
そう言っておきながら、47歳で旅立つなんて、早すぎです。
※追記:太郎さんインタビュー(2008年6月)